ある異業種交流会顛末記;あくまで、おいらの主観さw
東京フォートという異業種交流会に出入りするようになったのは、95年かな。
多分、94年の秋くらいからパソコン通信を始めていて、その中のコミュのような形であるフォーラムに書き込みを始めていたころである。
ビジネス系では1番人気のビジネスマンフォーラムに中心をおいていた。
前年に転職した会社でのプロジェクトが一つ、なし崩し的に終わり、新たなことを模索していた時期である。
また、もう一つの異業種システム屋の集まり、IRM(情報資源管理)研究会の発展的解消を迎え、事務局を引き受けるに当たり何かのヒントも求めていた。
ほとんどの人は意識していないだろうけど、インターネットが通信インフラとなった のは97年くらいからである。
95年の暮れにwin95が発売になっても、インターネットはまだまだ敷居が高かった。96年頃はインターネットメールは行方不明になったり、2ヶ月もかかって辿り着いたりと、あまりに信頼性が無かったのである。
パソコン通信の大手ニフティの会員数がピークを迎えるのは96年から97年なのである。(500万人超)
話は外れたが、要は通信である。連絡手段である。
IRM研究会は封書での連絡であり、後援してくれている企業もそこが重かった。当然個人負担での事務局としては、次のインフラはメールであった。
そのインフラの上に、人を集め続ける「場所」の意味を探ることでもあった。
研究会は成果として、2冊くらい本を出している。
エバンジェリスト的な会員が何人も出て、色々な企業でIRMを布教していった。
さて、異業種交流会の「成果」・「ゴール」って?
人の集まりが2種類できたことは画期的なことではなかったのか。
オンとオフである。
この場合は、オンは通信での集まり、メール・フォーラム(掲示板)であり、随時アクセスである。
オフは実際に会うことである。
オンで知り合い、オフで付き合いを深める。
ただ、オフ会の開催は大変であった。人数はそれなりに流動的であり、グルナビもなく、その上、居酒屋などでは不審な目で見られた。
そこで、顔の見えない付き合い、集まりを同一の場所でできるようにしたのが東京フォートである。
この後、横浜Gulf、名古屋eXe、大阪(梅田小町→大阪彩人)など4拠点となる。
現在残っているのは名古屋だけ。
どこの拠点も毎月会費を払い、代表・経理・広報などを置いて、マンションの一室を借りて維持していた。
東京フォートの最盛期の会員数は48名である。
場所は、小石川・市谷・原宿・小伝馬町と移転しており、原宿のときに最盛期を迎えている。
そして、そもそもの創設者が残っていたのもフォートの珍しさであろうか。
こういった場合、創業社長と同時に古びて右肩下がりになっていく中小企業に似ているような気がする。
理念をしっかりと引き継いでいけば良かったが、そうはならなかった。
遠回りのようだが、聞いていただきたい。
04年に私が代表を引き受けたときには、P/Lが痛んでおり、BSにも不可解な「基金」というのがあった。
この「基金」150万が問題であると感じた。
寄付金であるのか、貸し付けであるのか、それが分からなかった。
そのお金は3名の人物に紐付いていたので、実情をお聞きし、貸付であることが分かったので、翌年返還させて頂いた。利子は払えなかった。
つまり、金を出している以上、運営にも口を出し続けるということだったので、必要ないと判断し、会員にも了承してもらって返金した。
この時点で、フォートを精算すると若干の赤字で済む、というのが私の考えであった。
営利団体ではないが、人が集まらなくなったから会員数も30名を割り込み、オフ会の頻度も少なくなってジリ貧である。
すっきりと解散して、違う道を模索して好いのじゃないか。
しかし、総会で否決された。
相変わらず、私は人の気持ちを読めないので、色々な人の面子を潰したようである。
それから3年が経ち、ようやくメンバの気持ちの整理が付いたのであろう、フォートは08年9月末で場所を手放した。
もちろん、名称と集まりの理念は残っていますよ、私には使えませんが。
ちなみにIRM研究会は、96ー01年で運営して、当初のIRMもそれなり普及し、研究会としての役割を終えたので活動を中止しています。
私の仕事人脈として、かなり活きていますね。
フォートでは本当に自分勝手に振舞っていられ、好い空間であったと思う。
みんなには迷惑を掛けていたな。
その後も、メンバとの付き合いはそれなりに続けています。
よろしく。
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